「北海道」を撮るということ 1年が経って
こんばんは。
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で振り返った写真展も無事終わり、一息ついていたらもう4月。新年度がスタートしてしまいました。時間の流れは早いもので働き始めてからはや1年。「社会人」ってすごく遠い存在だと思っていたし、自分がなれるとも思っていなかった(?)のにちゃっかりできちゃっています。
そして北海道に来てからも1年が経ちました。たったの1年でわからないことばかり。北海道の「スタメン選手」を追いかけるので精いっぱいな1年だったともいえます。そういう意味でもちゃっかり道民ですね。ちゃっかり社会人とちゃっかり道民。本当の意味での一人前になるにはあと何年ずつかかるのでしょうかね。こればかりは時間が必要な気がします。
この一年、自分はどのように北海道に向き合ってきたのか。考えてみる。
北海道といえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。広大な大地と広い空でしょうか。具体的に上げてみると羊蹄山、五稜郭の桜、積丹の青い海、旭岳に美瑛の丘、大雪山の日本一早い紅葉やアイスバブルにダイヤモンドダスト、そして流氷。
パッと書き出しただけでもこんなにも。「観光」や「絶景」というとどうしてもこのようなものばかりが出てきてしまいます。確かにそれぞれが美しく、魅力的であることは間違いないのですが、それをそのまま撮ること自体にあまり意味を見い出していません。
そのまま撮る、とはどういうことか。よく言われることであるが、英語の“PHOTOGRAPH”は「光の絵」、という意味。その日本語訳である「写真」は「真(実)を写す」という意味。つまり、目の前の光景を写すだけが写真ではないということだが、どうも日本語が「写真」なだけに目の前のものをしっかりと写すことが「写真」であるように感じてしまいやすいのだろうか。
まさに、絶景などをそのまま撮る撮り方は「写真」かもしれない。それに対して、撮り手のテーマに沿う形で目の前の光を自由自在に操って2次元の平面空間に落とし込む撮り方が”PHOTOGRAPH”であるともいえるかもしれない。もちろんこれは私の勝手な見方ではある。どちらがいいとか悪いとかそういう話ではない。媒体や場所によって求められる、期待される写真は変わってくる。ただ、自分はできるだけ「PHOTOGRAPH」であるようにシャッターを切ってきたつもりだが、どうもそうなりきれていないように感じる。
ちょうど1年が経ったということで道内で撮った作品を並べてみたい。
いわゆる「北海道らしい」作品は皆無であろう。ただ、じゃあ、なんなのか、と言われると軸がブレすぎているのは一目瞭然だ。好きなものをファインダーの中で追い続けるだけのやり方とは学生時代におさらばすべきだったのにまだダラダラと続けてしまっていた。
テーマ探しとはなんなのだろう。
それこそ「自分自身」なのかもしれない。自分自身としっかりと向き合ってきたのか。うわべだけの楽しさだけを求めてて核心へは踏み込んでいないのではないか。表現したい物を追い続ける楽しさでないといけないはずだ。自分から「逃げ」てはいないか。この1年の写真を見返すと感じる物足りなさ。それこそが「自分自身」なのかもしれない。
北海道は本州と風土も文化も歴史も景観も全て異なる。それに戸惑い、驚き、楽しんできた1年だった。ただ、23年間住んだ本州と1年住んだ北海道、どっちが肌感覚に合うかと言われたらいうまでもなく本州であるし、本州のさまざまなこと(植生、気候、集落、文化などなど)を羨ましく思うことも少なくない。「本州の方が面白いじゃん」と。ただ、その姿勢こそ受け身であり、「自分」を持てていれば北海道でも本州でも関係なく撮りたい物を見つけてカメラを向け続けることができるはずだ。
これから、北海道をどう切り取っていこうか、「北海道」ってなんだろう、そして「自分自身」ってなんだろう。
仕事の時間も含めて考えながら過ごす2年目にしたい。