ふぉとde日記

思いついたことを撮ってきた写真とともに綴ります。できれば毎日シャッターを切りたいところですがマイペースにやっていきます。風景写真を中心に鉄道・風景・スナップ・Jリーグなど。たまに時事的な話題も。

説明だけ、からの脱却へ

今回は少し長く言葉をつづろうと思うのでこちらに書き込んでみます。

「写真」とはなにか。

 

最近よく考えるようになった。

逆に言うと、これまでの写真人生の中で深く考えたことはなかった。盲目的だった。

その理由も1か月くらい考えてふとわかったような気がする。あとで述べようと思う。

 

写真と一口に言ってもいろんなタイプのものがある。
スマホから8x10などの大型フィルムカメラまでいろんな撮像素子のサイズがあり、いろんな仕組みでシャッターが切れるようになっている。自分が以前持っていたものではフィルムカメラのNIKONF2は電池を使わない機械式のシャッターだったし、先日開発発表されたソニーのα9Ⅲはグローバルシャッターといわれる新たな電子シャッターの方式を搭載し、ストロボ同調速度の制限がなくなったりローリングゆがみが解消されるなどそのカメラでないと撮れない写真というのも出てきているのが事実だ。

NIKONF2で撮ったスナップショット。大学写真部の暗室で自分で現像。
恵まれていた環境だった。

そんななかで、我々写真を撮る者は自分の身の丈に合った機材を選び(その多くは大枚をはたくことになるが笑)写真を楽しむ。自分の場合、どうだったであろうか。

写真を始めたきっかけは「鉄道写真」だった。中学生だった当時買うことができたのは背伸びをしてもAPS-Cサイズの中級機。当時は連写が毎秒6コマでも速いといわれた。広角から標準まで一通りそろえて鉄道を撮っていた。面白いことに単焦点など写真特有の表現ができるレンズを持ってはいたがほぼ使った記憶がない。当時は全国の鉄道をめぐり、知らない土地の知らない駅で降りて写真を撮る。楽しかったし、旅が好きになった原点でもある。それ自体はいい経験だった。ただ、「写真」という側面でみるとどうだろうか。撮ってきたものは「説明的な写真」だったのではないか。
たとえば、下の写真。

これを見た人は何を感じるか。それは写真だから十人十色である。しかし、しっかりと説明することができる。「夕刻に雪がちらつくなか山際を列車が走り去っていた。空色も相まってどこか旅情を感じます。」と。つまり、鉄道という「主題」があってそこにどんな副題を合わせていくか。この写真だと車両が主題、副題が雪と夕刻の空の色。あれ、説明と全く同じになってしまった。まるでパズルのようだ。

せっかくなのでもう一枚くらい見てみよう。こちらは鉄道写真感を薄くした。

鉄道車両自体は写っていない。某鉄道フォトコンで入賞した作品であるが一見するとスナップ写真のように見える。でも、どうだろう。もし、スナップ写真として切り取るならこういう撮り方をするだろうか。そうは思わない。まずは、この写真を説明してみよう。「ローカル線の駅のベンチで列車を待ちぼうけするカエルを見つけました。自分も隣に座ってのんびり列車を待ちます。」ここで重要なのは「ローカル線の駅のベンチ」だ。要素が少ない中で何とかそれを説明しようとして作った構図がまさにこの画面左半分の部分ではないかと思う。無意識に「説明しよう」と構図を作っていたのだ。カエル×自分、光、時間etc...鉄道以外のほかに反応したらもっと違う撮り方になって、それは明確に鉄道を説明するために意図した構図ではないといえるだろう。

つまり、鉄道写真はよくよく考えてみると説明的性格が強く、主に鉄道写真を撮っていた当時の私は説明的に写真を撮ることに無意識に慣れていった。


大学に入ると、鉄道以外のいろんな部分に目を向けようと様々なジャンルを撮ろうとした。少しポートレートを撮ってみたり、スナップしてみたり。結局、田舎や自然が好きだったので風景をメインに撮影するようになった。

風景を撮り始めたときの写真だ。どうだろうか。1つコメントを言うとしたらなんだろうか。それぞれ考えてみてほしい。

それは「作為的」というコメントだろう。右上の紅葉した葉っぱを見つけた。それを主題に水の流れを心地よく配置する。主題を何にするかを選ばなくてはいけないという点が鉄道写真と違うが実はそのあとの絵作りのプロセスは同じではないか。この写真は紅葉の葉が小さいなど完成されていない、、、おっと、ここでまた引っかかる言葉を使ってしまった。「完成されていない」とはどういうことか。正解があるのか?そういうことになる。その正解はオリジナルな理想や作品を成り立たせる何かを写すということか、それとも過去に見たイメージの中から無意識に作り出したものなのか。この写真を撮った当時の僕の頭の中にあったのは後者だろう。それに近づけようと努力したのだ。決してそれは悪いことではない。その作業自体と出来上がったイメージに満足できればそれでいい。話が飛んだが、この写真も説明的だ。「渓谷の清らかな水の流れに晩秋を思わせる紅葉の葉。心安らぐ。」逆に言うと他に説明する余地がない、とでも言える。

もう1枚見てみよう。

昨年撮った波だ。いつでも撮れそうではあるが岸壁の上から波の向きや荒れ具合、海の色など条件がそろう必要がある。そしてだいぶグラフィカルになった。「荒れ狂う波」と説明はできるが、強風を感じたり、荒れているのに青い海の色に違和感を感じたり、同じ波は2つとない、と考えたり先ほどの渓流の写真よりいろんなとらえ方ができる。それは関係性を説明しようとしてないからだと思う。そういう意味では説明的という枠からは少し外れている。力強いしいいと思ってくれる人もいるかもしれない。ただ、どうだろう。写真という2次元の枠から広がっていくような、余白はあるだろうか。最近の自分の課題点である。被写体を見つけ、それが輝くように「調理」してしまった結果がこの写真なのではないか。その行為自体何も悪いことではない。写真の楽しみ方であるし、これを撮っている自分はとても楽しかった記憶がある。波を見定め、シャッタースピードを変えながらカメラを振る。時間を忘れるほどだ。まるでカメラという機械を使って絵をかいているかのような気持ちだ。ただ、「調理」という過程が写真の余白をそぎ落としているのではないか。

せっかくの機会なので近年の写真を数枚並べてみる。



少し分野を変えてみよう。2021年の新聞協会賞に選ばれた写真だ。私自身、すごく好きな写真である。毎日新聞貝塚フォトグラファ撮影だ。

コロナという見えないものが防護服で可視化される。右上には遺影だろうか。家族のストーリーを想像できる。老人ホームでコロナ渦を過ごしていた自分の祖母はどうだったのか。そこまでいけばこの写真はもう新聞という媒体から独り歩きを始めているといえる。そして少し意外かもしれないがこれも「決定的瞬間」であると思う。記事冒頭にもあるが「撮ったもん勝ちの世界」なのである。説明的な報道写真の中でこの写真はすごくのびやかだ。それでいて「コロナ渦の再会」という社会的事実を的確に伝えている。
ふと思った。この場面を違う方法で表現してみることはできないか。ちょっと面白いので思考してみよう。(※1)といってもわかっている場面から逆算するのですごく卑怯だが。まず前提で「撮り手が老人ホームにいる祖母に会いたい」と思っているとする。宇宙服のような防護服で再開している場面を知り、撮らせてもらうことになった。二人のポートレートを撮る。それお母さんは左半分、娘さんは防護服、マスク越しに右半分だ。ホームに入ってくる光を撮る。遺影も撮る。そして娘さんの顔は撮ってあるので思い切って再開の瞬間はお母さんにフォーカスする。すると結果的にビニールをつぶしながら笑顔を見せるお母さんの表情が撮れただろう。この4枚を仮に組んでみたらそれは一枚一枚は「窓」にはならない。だが、4枚合わせて「読む」といろんなことが想像できる。この1枚の写真のようにすべては語れない。逆説的だが4枚使っていてもむしろ情報量は少ない。それでも、一枚よりも読み方は多彩になることは違いない。撮り方によっては「うらやましい」と感じる撮り手の気持を載せていることにもなる。

小林紀晴先生の著書「写真はわからない 撮る・読む・伝えるー体験的写真論」(光文社)の第4章が、写真は「窓」「鏡」か、というテーマで書かれている。報道写真は間違いものなく「窓」になる。多くの人が見えないものを窓から見せてあげるように現実を切りとる。そこに写るものは写っているものが画面上で関連性をもって語られなければいけない。一方、「鏡」とはなにか。簡単に言うと自分を投影するということだ。つまり、極論本人しかわからないかもしれない。ただ、写っているものや周辺情報から鑑賞者が考える。そして、写真が鑑賞者個々人の中で読まれてい。理解されていく。撮影者の意図と違うものになるかもしれない。それもの可能性も「写真らしさ」として撮っていくのが「鏡」としての写真なのだろう。もしかしたら(※1)も「鏡」になりうるかもしれない。


自分の話に戻そう。ここまでいろいろと書いてきたが、つまるところ今まで自分にとっての写真は紀晴先生の言葉を借りると「窓」だったのではないか。鉄道写真でも風景写真でも「こんな場所があるよ」「こんな景色があるよ」「こんなストーリーが自分には見えたよ」画面の中の被写体同士が共鳴しあう。一枚完結型、視点は一人称というよりも三人称だ。そこに盲目的になっていたというか、もっと自由な写真があっていいことに気が付けていなかった。いろんな方と話していく中で、気が付けてきたのだ。すこし、このままだと「表現」としての写真に限界を感じていた。それはそうだ。一枚が完成されてしまっては、断片のイメージをつなげて自分を写真という「鏡」に投影できない。
最近撮った猫の写真だ。

この一枚ではよく状況が分からないかもしれない。説明的な癖が出ている気もするが、青い瞳の猫。自分を見つめて動かない。見つめあう。ふと、後ろに2匹いることに気が付く。猫のまなざしを通り越して奥の林に意識が行った。「個性的だな」不思議なねこの世界になんとなく入りたくなって撮った一枚だった。

ぶれててもボケてても記憶の色にしてもいいかもしれない。凝り固まった写真へのアプローチを少しずつ変える。説明しない写真、わからなくてもいいじゃないか。でも、写真を重ねていくことで写真自身が歩き出してくれる。自分の感覚で撮り重ねたものが鑑賞者と歩んでいけるように。それが写真の面白い部分だと最近思う。今年から動画を撮り始めたことも影響しているのかもしれない。写真で頑張って説明していることをじつは映像だとより効果的かつ簡単に表現できたりする。まだまだヒントを得たに過ぎない。実践と学習を繰りかえして「窓」「鏡」も習得できるように向き合っていきたい。スタートラインに立ったばかりだ。